観音霊場

観音霊場のおこり

秩父34カ所観音霊場巡りは、「西国33観音」「坂東33観音」と並んで「日本百観音」の一角を占め、現在も多くの観音霊場巡拝者を迎えております。秩父札所観音霊場巡りのおこりについては、年代を異にした三説があります。その代表的なものは、文暦元年甲牛歳3月18日説であります。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」に記述されている内容は、大略次のとおりであります。「夫、末世の衆生を助け給う可き方便と為して、日本百ヶ所の観音菩薩顕はる。西国33ヶ所は養老2年、坂東33ヶ所は永観2年、秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・後白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」そしてこの伝説は、じつに500年以上もの長期間にわたって秩父の庶民の間に語り継がれてきたのであります。忠実として秩父観音霊場の存在を語る最古の資料は、札所32番に現存する秩父33観音の番付「長享の番付」であります。末尾に長享2年戌甲5月2日とあります。このことから、この年には、秩父に33の観音霊場があったことが証明されます。その設置の経緯は以下のように考えられます。鎌倉幕府が開かれると、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場のようすが修験者や武士などを通じて秩父に伝えられました。秩父の人々の中にはそれらの巡拝を望む者もあったが、それは大変な難事であったので、せめて秩父の中で修験者らが土地の人たちと結んで祀ったささやかな観音堂を順拝し、それがやがて33所に固定していったものと思われます。次に秩父が34観音になった時期については、従来、札所30番の「西国坂東秩父百ヶ所順礼只1人」と記された天文5年の古納札がその証といわれたが、最近では16世紀後半、「百観音信仰」の風潮がおこり、西国・坂東に次いで秩父霊場が歴史も浅く、地域的にも増設の条件にも恵まれていたことから秩父増設が実現し、番付も江戸からの参拝者の便を考えて現行の番付になったものといわれております。

長享二年の札所の番付

秩父札所巡り32番般若山法性寺というより、お船観音とか般若のお船といったほうが、秩父の人たちにはよく知られております。寺の入り口の石柱に大きな字で、32番目と彫ってあり、そのすぐ後ろが仁王門となっております。この門は中央が通路、左右に仁王、さらに上の階が鐘つき堂になっているたいへん珍しい建物であります。県内で最も有名な鐘楼門は、川越喜多院のものといわれております。門を入ると程よく風化して苔のついた石段、右手には古色を帯びた切石の石垣、竹林、清らかな仏のいる聖地といった雰囲気が漂っています。一息ついて上の段に庫裏と本堂があり、観音堂はさらに一段上の岩の斜面に建てられ、懸崖造りになっています。この観音堂の奥の院が有名な「岩船」で、岩壁を鎖にすがったりして、500メートルばかり登ると頂上であります。頂上に着くとすぐ眼下には柿の久保の集落が点在し、遠くには秩父連山が見渡せる。南の端には正徳2年と銘のある大日如来、北の端には岩船観音が祀られております。この寺には、秩父札所の歴史を知る上で、最高の史料のひとつとされる札所番付が残されています。秩父札所めぐりが始められた時期は明らかではないが、この番付には長享2年の日付があり、室町時代すでに33ヶ所の札所が定められていたことを物語っております。これによると秩父札所は1番から33番までしかなく、現在の20番以外はみな番付も違い、1番は現在の17番定林寺、2番が現在の15番少林寺、3番が現在の14番今宮坊、33番が現在の34番水潜寺、現在1番の四萬部寺は24番で、順序が大きく異なっています。これは交通路の関係からで、室町時代には南北路線(名栗→山伏峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷→皆野→児玉→鬼石)が中心で、秩父札所巡礼はこの道か、吾野通り(飯能→正丸峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷)と通って秩父札所を巡ったと考えられます。秩父札所巡礼の最も盛んになった江戸時代になると、交通量の多い熊谷通りと川越通りの交差する栃谷の四萬部寺を1番として、2番真福寺を追加し、山田→横瀬→大宮郷→寺尾→別所→久那→影森→荒川→小鹿野→吉田と巡拝し、34番を結願寺にしたと思われます。「秩父札所霊場という集団は、巡礼の流れの上に咲いた花である。水元が涸れればすぐさま萎えしぼむ運命をもっていた。秩父札所の水源は江戸百万の市民であった。」と「秩父札所の今昔」には書かれています。秩父札所は江戸と非常に深い関係にあったことがうかがえます。この寺には、札所番付のほかに本尊である木造聖観音立像、木造蔵王現像、大般若経など貴重な文化財も多く所有され、是非とも訪れたい札所のひとつであります。

盛んな札所巡り

元禄期になると社会全体も落着きを取りもどし、文化も発展してきた。経済力を持った江戸の町人達は観音巡礼の名のもとに秩父を訪れるようになりました。「札所霊場という集団は、巡礼の流れの上に咲いた花である。水元が涸れればすぐさま萎えしぼむ運命をもっていた。秩父札所の水源は江戸百万の市民であった。」このことは、地元にしっかりした檀家組織を持たない秩父札所の姿を如実に語っています。たとえば札所1番にしてもまったくの無檀家で、現在の観音堂は、江戸の田丸屋治兵衛の助成で元禄10年に建立され、宝暦の大改修も江戸浅草講中の助成によって成し遂げられたものであります。また札所4番の多数の石仏寄進者の出自を見ても江戸の商人が圧倒的に多く、全石仏の約半数を占めています。豊な経済力を持った商人たちのあいだでは、信仰と物見遊山を兼ねての巡礼者も多かった。とくに江戸から秩父へは近距離であり、関所通行の煩雑さもなく、短い日数・少ない費用で四季折々の風物に触れ、伝統の鉱泉宿の湯に浸り心身を癒すには格好の土地であったのであろう。またこの時期、江戸での出開帳が修験系の札所から行われはじめた。延宝6年の札所20番を皮切りに、18番・14番と次々に数か所の札所が出開帳を行った。そして明和元年には、秩父札所惣出開帳が江戸護国寺を会場にして行われました。この時の記録によると「前代聞無の盛儀」とあり、将軍家治の代参のほか、諸大名、大奥女中、旗本などの参詣もあり、秩父札所の声価を高めた一大イベントであった。この江戸惣出開帳に力を得た秩父札所は以後何回かの惣出開帳を実施した。そのほか、秩父現地での「午歳総開帳」がある。このときには、御本尊の厨子を開き、御本尊の手から綱を引き出し、堂外の角塔婆にその綱を垂らし「お手綱」といい、この綱を手にして親しく観音様を拝むことが出来るので参詣者も平常年の何倍にものぼった。秩父を支配していた忍藩の代官所も、船賃、川越賃、駄賃などについて細々とした通達を出して巡礼者を保護した。また寛延3年総開帳の年、巡礼入秩数の調査を命じているが、名主報告によると、この年の1月~3月の間に4万~5万人の参詣者があったと記録されています。このような巡礼の盛行に伴い「案内書」「道中記」も次々と刊行されたり、巡礼石なども盛んに造立されるようになった。